昭和五十六年四月一日 朝の御理解
御神訓 「神は声もなし 形も見えず 疑わば限りなし 恐るべし疑いを去れよ」
疑わば限りなし、疑うて行けば限りなく疑いの心が、雲のように湧いてくる。そんな時代もやっぱりございます。けれどもまた信じて頂けばまた限りがない。いよいよ神様の絶対信と申しますか。その信ずる心がいよいよ確立してくる。
これは私が思いますのに、人間の幸せは神のおかげで立ち行くんだ。神様のおかげを頂かずには人間の幸福はあり得ないんだと信ずることからだと思うんです。だから信心とは、結局神様を信ずる心がいよいよ限りなく大きく本当なものへなって行くことだと思うんです。
合楽に御神縁を頂いている程しの人ですから、神様を疑うてかかるという人はありますまいけれども、それを絶対信というところまで高めて行くということはやはり稽古なんです。信心・真心・神心である。いわゆる信ずる心、真心(しんじん)、真心(まごころ)、次には神心と。
教祖様が生神という前代未聞のまたとない御神格をお受けになった。ところが、教祖様は「此方ばかりが生神ではない」と仰せられる。皆もその通りのおかげが受けられる。此方がおかげの受けはじめであって、教祖金光大神様の言うならば専売特許じゃないんだと。皆もおかげが受けられると仰せられている。
私は金光教の信心の素晴らしいということは、この辺の所にあると思う。皆が生神を目指されるということ。ね。まあそれを言葉を変えると、私はこりゃあ昔から思っておりましたけれども、日本一偉い人になるということはなかなか出来ません。頭が要る。技量が要る。力が要る。けれども日本一に有難い有難い人になろうということなら、こりゃ誰でも思い立つことが出来るんだと思うんです。
ですから、一切何もかも教祖がおっしゃるように、「此方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん」と仰せられるような、言うならば簡単な、単純な感じの御教えですけれども。だから何もかにもおかげおかげで有難く受けられる稽古なんだ。
だから頭はいらんのであり、いやむしろ頭があれば却って邪魔になるようなことすらがあるのです。学問が却って身を喰うということすらがあるのです。そういう中にいわゆる
本気で有難くなろうというのですからね。どちらへ転がしても喜びしか出らん。それにはねやはり目指さなければいけんのです。本気で有難くなろうと。
ところが実際は、有難くないこともあるけれども、さあそれを有難く頂くことが信心の稽古なんです。痛いこともありゃあ苦しいこともあるんです。それを有難く頂くのが信心の稽古なんです。ただ、よくなして下さい。治らして下さい。どうぞ楽にならせて下さいということが信心のように思うておりますけれどね、そうじゃないのです。
目指すところを目指すというなら、ここまでは誰でも頂けるんだと教祖様がおっしゃっておられるんだから。言うならばいわゆる生神金光大神を目指すというと、ちょっとまあ、とても私共が手の届くところじゃないというような感じも致しますけれども、結局金光大神の内容というのは、もうどちらへ転がしても喜びと。丸い手鞠のような物に喜びという字を一杯書いて転がしておるようなもん。どちらへ転んでも喜びしか出てこない。その稽古なんです。だから私は、生神を目指そうとは思いません。また考えたこともなかったですけれども、とにかく日本一有難い自分にならせて頂こうという願いを持ちました。
それでまあ私の今から言うと、いろんな修行の真っ最中の時でしたけれども、私共の手近な所には、私共の三井教会の初代または、久留米の石橋先生、それから福岡の吉木先生、また小倉の桂先生と九州の祖と言われ、これは私共の信心の先達であり先輩であられる先生方がお徳を受けられて、沢山な人が助かられた。
そういうそのお話を頂いておりますのですから、私は思ったんですけれども、桂先生とてもやっぱり生身の人間だ。石橋先生だって誰だってそうなんだ。だから、桂先生がなさった修行が自分に出来んはずはない。そんな考え方が私の心ん中にはいつもありましたですね。
だから、まあ実際は出来ませんでしたけれども、その真似方だけでもさせて頂こうと思うて、様々に、桂先生やら石橋先生やら吉木先生やら、または荒巻弓次郎先生辺りのなさったという修行に、本気で取り組んでさせて頂いて、そして完璧なことも出来ませんでしたけれども、とにかく願いは持った。
そうして行く中に何が生まれてきたかというと、いよいよ神様を信ぜんわけにはいけない。疑おうにも疑えない、余地のないという働きが私の身近に起こってきたんです。そして今日の合楽なんですね。
だから、成程疑うてかかる人もありますけれども、限りない疑えば。けれども信ずればまた限りがない。なら、初めからそんなに確信とか確立というようなわけにはまいりませんけれども、人間の私は幸せというものは、神様のおかげを頂かねば、神様のお許しを頂かなければ、人間の幸せはあり得ないんだと分からせて頂いた時にです。なら私共教祖の神様の御教えを、言うならお言葉を信ずるということなんです。
そして、なら、有難くなることのための精進。その精進ならば、まず手近な所でお徳を受けられた、人が助かったと言われる先生方の信心修行を、人間生身を待っておられる先生方が、しかも身近な所にある。その先生方がなさった修行というのだから、私に出来ん
ことはないとこう思うた。それを真似方でも本気で取り組ませて頂いておったら、だんだん疑うわけにはいかん。信ずるという信心が生まれてきた。
信ずる心がそして言うならば真心。信心は真一つ、真心一つと言われるから、真の追求に一生懸命にならせて頂いて生まれたのが合楽理念なんです。ほりゃあ真の追求、真心、どこまでが真心じゃりゃあ真やら分からなかった。ところが合楽理念がだんだん確立して参りますと、その結局先だってから頂きますように、合楽理念こそ真だと、その真を身を以て行ずる所に真心が要る。真心と真が一つになって、合楽理念の実験をする。そこから生まれてくる実証、それはそのまま神様のお働きであり、神様を信ずるという心なんです。
だから合楽の方達の場合ね、そんならそれも合楽理念というのがもうそれこそ私共が過去において致しました、先達がなさったという火の行・水の行から、あられもない業行のこと。なら、はあ生身を持っておる人間なら誰でんでは出来んという感じがするんですけれども、もう心行一つと。家業の行だと。家業を持たない者はありませんから、家業の中身が心行になって行くことなんだと。
小竹の加藤さんじゃないですけれど、毎月のお届けが、今日もどうぞ千回の喜びをお届けされます。千回有難うございます有難うございますちゅうことじゃないでしょう。恐らく一日中のどういうことがあっても、どういう中にあっても、それを喜びで受けさして下さいという願いであろうと思うんです。
だから願いを持たなければいけないです。またそこに現われてくるおかげも、これは加藤電気商をなさっておられますけれども、加藤電気だけがどうしてそういうおかげが頂かれるだろうかというようなやはり御比礼がそのお店の上に現われております。九州で何件しかないといわれるような、言わば成長していっております。ですから、願わなきゃいけんです。
去年は今を喜ぶ信心に取り組んでおられました。同じです。今年の正月のくじに引き当てられたのが、やはり一日千回の喜びということであった。だからそれを一日の信心の目当てにして進んで行かれる。目当てを作ってそれに進んで行くと、いつのまにか疑おうとしても疑えない。信ぜずにはおられない働きが周辺に起きてくるんです。
だからいよいよ信心、いわゆる真心にならざるを得ない。いわゆる合楽理念の実験実証さして頂くことが有難いことになってくる。そういう過程において生まれてくるのが神心なんです。はあ十年と信心が続いたら、我ながらわが心を祭れと仰せられる。これも金光教独特の表現であり、御教えです。一日千回の喜び、今を喜ぶという稽古に本気で取り組ませて頂いたら、確かに十年経ったら、我ながらわが心が祭れれるようになるだろうと私は思うです。
信心、真心、神心、そういう過程を、私共がです。ならこれからこれまでは信ずる心、これからこれまでは真心じゃなくてです。本気でそういう有難い私になろうと発願することです。そのために人がなさったという修行ならば、自分にも出来んことはあるまいとそ
れに取り組む姿勢を作ることなんだ。
そして、今、なら合楽で言われる表行全廃と言われるのですから、いわゆる合楽理念の修行一本に絞らせて頂くと、成程合楽のいうならスローガンに、としてまあ皆が申しておられますように、簡単です。明瞭です。おかげが確かです。言うならば天地のリズムを聞きながら、それこそどんな中にあっても、楽しゅう愉快に信心の稽古が出来る。初めて、真、真心というものが、このようにも誰にでも簡単に入って行けれる手立てを教えて頂いた。それが合楽理念である。
だから、本気で合楽理念の実験実証者になろうと発願しなければならん。そこからいつのまにか信ずる心が強まってきた。真心もまた。それには、これが神心であろうかと思われるような心までが育ってくる。せっかく信心の稽古をさせて頂くのですから、普通なら稽古といいながらなかなか稽古を致しません。朝の御祈念にこれだけのお参りがこれだけの方達が、今日は合楽の朝参りをさしてもらう。信心の稽古をさして頂こうと思うて来る人が多くなったら、もっともっと合楽は大変なおかげになってくるだろうとこう思う。
今朝方から、この頃胃がこう痛んで眠ったり、一晩中まあ眠ったり、眠らなかったりといったような毎日が続いているのですけど、近頃ちょろっと眠らして頂いてお夢頂いたのが、あちらこちらの外人さん達が、合楽に不思議な縁で縁を受けて、合楽理念の素晴らしさを分かって、合楽に研修にくるというようなお夢を頂いたんですけれども。本当に合楽理念を以て全国津々浦々にお道の信心が、言うなら「和賀心時代を世界中に」というような願いを持っておるから頂いたお夢であろうかとまあ思わせて頂いたんですけれども、外人というのは合楽以外の方と言う意味ではなかろうかと思ったんです。
私が思うたのは直接聞いたのではないのですけども、先日信徒会で「あいよかけよ」という信徒会の御本が全国的に出されておりますね。あれに合楽理念について、合楽の若い先生方のまあ論文を欲しいというような、してくれといったような話を聞きました。
また先だっては、京都から川辺という方が参って見えた。こちらに参って見えるたびに「おかげの泉」を何十冊というて買っていかれる方です。その方が合楽で不思議なおかげを頂いて、大分新聞記者の方です。それを今度あの本部から出ておりますね、「金光青年」という青年向けの雑誌がございます。その今度支持長をなさることになった。それでこれからしばらくは、その「金光青年」に合楽のことを、合楽の信心を掲載したい。でこちらにあちらのその係の方達が何日か泊込みで合楽の勉強に来たいといったようなお話も頂いております。
先だってからは、教学所の所長である瀬戸先生が参拝になりました。先だっては講師でお迎えした。そして初めて合楽の信心に触れられた。そして合楽にしかないもの、教祖金光大神の御信心の言うならば研究者というかね、まあ教団で第一人者でしょうけれども。これは合楽の信心によらなければ、教祖の神様を目のあたりに見ながら、教祖様を研究するといったようなことが合楽でなら出来るというような意味のことを言うておられます。
そういう働きが言わば起こっておること。今までは言うならば合楽以外の方達が合楽の信心にそうした興味または熱意を示されるということ。そこでなら合楽の御信奉者である皆さんが、本気で合楽理念の実験実証者としてのおかげを頂いて頂かなければならんと言うふうに思うです。言うならば内外共に言うならば本当なものになって行かなければ、これを言うなら万国津々浦々にというようなことにはなりません。やはり内容がなからなければ出来ません。
それには、合楽にご縁を頂いている人たち。そして外からの人たちも成程と合点の出来るような信心を樹立して行きたい。打ち立てて行きたい。いよいよ合楽理念の実験実証によってです。人間の幸せをいわゆる金光大神が願っておられる。
今度、金光大神の御教えが新たな教典になって出てくるそうですが。その中に「金光大神が世界を包み回す」というお言葉があるそうですね。私は先だって、あの世界をカバーする。こう被せる。だから皆が信心せんでも、所々にでも合楽の信心を頂いた人たちがおればです。言うならば「一軒の家に一人の信心があれば、一家をカバーして下さるように、一村に一人の信者が、一介の信者がおれば一村を神様がカバーして下さる」と言われておりますがね。まあ所々にでも、世界の津々浦々に合楽理念の実験、今日私がお夢に頂いたような人たちが、一つの手がかりにでもなって下さって、合楽の実験実証者が世界津々浦々に出来てくる。
そこに言うならば世界の運命が変わってくる。世界に言うならば人間の住む世界に死相が現われた。寒天危地それを歓天喜地にして行く運命を切り替えて行く。人間の運命が変えられる。もうこの人は難しいと言われた人が助かっておるという事実がある。そんならそれを大きく考えて行くと、地球にたとえ死相が現われておるというような現世であっても、地球にまた活を与えて頂くおかげの頂けんこともなかろう。そういう大きな願いを持って、合楽の、天地の神様がかけられる願いはそういうところにあるように思うんです。 ですからみなさん合楽にご縁を頂いたというそれこそ不思議なるその縁によって、こうして結ばれていっているのですから、その縁をいよいよそういう偉大な御神縁に結びつけて行くというか、私共はそういう願いを立てるということ。
まずは本気で日々を合楽理念の実験実証者たらんという願い。どうぞ今日も千回の喜びをというような信心に取り組ませて頂いて、信心とはおかげを頂くためと言うておるけれども、私共は日々喜ばせて頂く稽古に取り組むこと。どういう事柄の中からでも喜びを分からして頂こうとする言うなら熱意が欲しいところでございます。 どうぞ疑えば限りがない。けれども、また信じて、その実験実証に当たらして頂いたら、もう限りない神様を感じることが出来ます。
どうぞ。